2006年03月29日
Vol.009 深刻化する「いじめ」の問題
私のところにも、悩んだ中学生の男の子とお母さんが相談にきたことがあります。その子は小学生のころからいじめに遭い、中学二年の時には、休み時間に職員室に避難するほどになりました。その時点で相談にこられたのです。その子は幼児期、話すのが遅かったため、お母さんはいつも子供について回り、「こうでしょう」「ああでしょう」と、子供が言いたいことを先回りして言っていました。それが高じてお母さんは、一から十まで子供の面倒をみることになり、その結果、お母さんがいないと何も言えない、わがままな子供になっていたのでした。その子のいじめの一因は、人前で考えをはっきり表現できない上、わがままであることにありましたが、いじめに遭うと、母親は子供を守ろうとして輪をかけて過保護になっていたのです。さらに話すうち、お母さんは酒飲みの夫との生活を嫌っており、そんなこともあって、子供に手をかけることがお母さんの生きがいだと分かったのです。私は、お母さんには夫婦調和の大切さを話すとともに、自らの生きがいを見つけ、子供を放すこと、子供には相談にくる際、話したいことを三項目にしぼって、きちんとノートにまとめてくるように話しました。何度も繰り返すうちに、お母さんは夫への感謝を実行し、やがて着付けという趣味を見いだすようになり、次第に子供を放していきました。すると、それにつれて、子供も徐々に自分の言いたいことを表現できるようになり、わがままもなくなって、バドミントン部に入部。希望をもって活動し始めたころには、いじめもすっかり消えていたのでした。現在、「楽しい」と元気に定時制高校に通うその子供を見ていると、生長の家で教えられている「家庭調和の大切さ」を実感します。
Vol.008 二人の女性教師
私の通った旧制中学校では、音楽の教師だけが女性でした。ある日その三輪素子先生が分厚い西洋音楽史を持参され、私に貸してくださいました。そのころの私は、音楽の道を志し、学校のピアノを使って練習に励んでいたのですが、音楽史についての知識はなかったため、本を見て驚きました。さまざまな楽器などが絵入りで紹介されているその本を通して西洋音楽の長い歴史を知り、驚きは徐々に感動に変わって、改めて音楽の道に進もうという意を強くしたのでした。三輪先生の授業風景は記憶から遠ざかりましたが、この本を私に渡してくださったときの優しい表情は、脳裏に焼き付いています。今考えますと、その表情には、私を大きく育ててあげようという愛情がこめられていたのだと思います。また東京芸術大学でピアノを教えてくださった長谷川久子先生も忘れられません。先生は体格が良く、威厳のある方でしたが、ある時、先生のピアノレッスンを受けるため、私たち門下生がレッスン室の前の廊下で待っていると、いつもはハイヒールの音をカッ、カッと響かせ威風堂堂と歩いてこられる先生が、その時にかぎってチョコチョコと小走りでこられたのです。その格好がこっけいだったものですから、皆腹を抱えて笑い出しました。すると、私たちの前にこられた先生が「これは鎌さんのまねよ」と言われたので、また爆笑してしまいました。しかし同時に私は、ふだん近寄り難い存在と思っていた先生が、まねができるほどにしっかりと私の特徴を把握していた観察力の鋭さに感心しました。それからの私が、ピアノの練習に一層力が入るようになったのは、言うまでもありません。あれから長い歳月が流れましたが、今もこのお二人のような親であり、先生でありたいと願い続けています。
Vol.007 希望を実現するカギ
小学校の高学年のころ、音楽の時間に歌のテストが行われたことがありました。幼いころ、母がミシンを踏みながら口ずさんでいた歌を聞いて音楽に初めて目を向け、手回しの蓄音機でマーチのレコードをかけては家の中を歩き回っていた私でしたが、歌には自信がありませんでした。父や兄弟が皆しわがれ声だったものですから、その血をひいた私も、歌では良い点が取れないはずだと思い込んでいたのです。ところが、いざテストになって、いつも音楽の先生から指導されているように、きちんと姿勢を正して前を向き、口を大きく開けて歌った私は、一番良い評価を頂くことができました。このとき、音楽は才能ばかりでなく、先生の言うことをよく聞き、その通りに歌う努力をすれば、良い点を取ることもできるという経験をしました。それから音楽にますます興味を抱くようになった私は、中学校に入って音楽部の一員となり、音楽の道に進むことを夢みて、ピアノの練習に励むようになりました。学校のピアノは音楽部員は自由に使えましたが、放課後は常にだれかが使っていたため、私は先生にお願いし、朝の五時から七時までピアノを貸していただいて練習に打ち込みました。氷点下一五度という厳寒の冬にも、寒さで動かなくなった両手の指をこすり合わせ、その場で駆け足をしたりして体を温めて練習しました。体は凍えても、心はピアノを練習するという意気込みに燃えていたのです。そうしたピアノの練習を中学、高校と六年間続けるうちに、神様のみ心にかなっていき、音楽の道に進むための流れができて「音楽の道に進みたい」という願いが成就したのだと思います。希望を実現するためのカギは、「努力の継続」なのです。
Vol.006 子供は親や教師の鏡
昔も今も「私たちは懸命に指導しているのに、どうして生徒は言うことをきいてくれないのか」と嘆く教師を見かけます。なぜ、そうなるのでしようか。私は中学校の教師をしていたころ、生徒を指導する際、自らの体験を交えた話をよくしました。『生命の実相』(頭注版第七巻)に「朝の時間を利用するものは一日を生かすのである。毎日朝の時間を利用するものは生涯を生かすのである。」と示されているように、中学(旧制)時代の私は、朝の時間を生かして勉強に励みました。例えば、月曜から土曜の毎朝、五分の時間に英語の単語を五つ暗記。日曜日にそれまで覚えた単語を復習、次の日曜日にさらに復習するということを一年間続け、大きな成果を、上げました。折を見ては、そんな体験を話したのですが、素直に実行した生徒の中には、大学医学部の教授として活躍するまでになった人もいます。このように、素直に私の言うことを実行してくれる生徒が現れたのはどうしてか、といいますと、私が早く出勤して学校の周辺を掃除したり、校門の前で「おはようございます」と生徒に声をかけるなどの努力をした結果だったと思います。もし、私が自分のことはさておき、ただやみくもに生徒に言うことを聞かそうとしていたなら、反発されただけで、だれも言うことを聞いてくれなかったに違いありません。教師の方々も「どうして生徒が言うことをきかないのか」と悩む前に、自分は率先垂範しているか、と問うてみる必要があるのではないでしようか。これは、教師に限らず、親の場合も同じです。子供は、教師や親の言動をよく見、そのままをまねていることが多いもの。「子供は親や教師の心の鏡である」とは、いつの世でも変わらぬ真理です。
Vol.005 無限の可能性を信じよう
中学・高校時代、音楽の道を志していた私は、家にピアノがなかったため、朝晩学校のピアノを使い、独学で練習に励みました。そんな時、高校の生物の先生からこんな話を聞かされました。「君は毎朝晩ピアノの練習をしているようだが、音楽の道には進まないほうがいい。私の専門は遺伝学で、音楽家の系譜を調べてみると、みんな一族に音楽家がいて、先天的に音楽の才能をもっている人が多い。ヨハン・セバスチャン・バッハをご覧。君の家系には、音楽家がいるかい?」戦後間もなく、食べ物もろくになかった当時、音楽で食べていくのは容易ではないと考えるのが常識でした。ですから、先生の言葉に反発を覚えながらも、「別の道に進んだほうが苦労しなくてすむと深切に話してくださったのだ」と愛情も感じた私は、高校卒業後、素直に別の道に進みかけました。が、何かに導かれるように、行けるはずがない、夢のまた夢と思っていた大学の音楽科に進み、やがて公立中学校の音楽の教諭となって、志を実現することができたのでした。なぜ、それが可能となったのでしようか。それは父が蓄音機や、いろいろなレコードをそろえていたため、自然に音楽に親しむことがてきたこと、生長の家を信仰していた父の影響で、私自身も「夢は必ず実現する」と信じてピアノの練習に励んだことが大きかったと思います。この体験を通して、生長の家の教えの通り、人間には遺伝学を超えた無限の可能性があると確信した私は、胎教として長女、次女の二人の子供に音楽を聴かせました。そのためか、長女は音楽大学のピアノ科、次女は声楽科を卒業しました。今も二人の娘と演奏を楽しむこともあり、家族で音楽を奏でる喜びを味わっています。子供の無限の可能性を信じましよう。
Vol.004 父の愛
父の七年忌に、父の日記帳を読むと「清水の舞台から飛び降りるつもりで稲蔵を音楽の道に進めた」とありました。子供の進む道を父か自分の育った環境から判断する限り、音楽の道は、河原で帽子に投げ銭をもらって生活するバイオリン弾きです。一生生活苦の道に子供を進めたくないのです。父が決断した心境を思うと、その切なさが伝ってきます。決断には何か大きな力が働いたとしか思われません。それは、六年間学校のピアノを借りて朝五時から七時まで練習に励んだ私の努力を父が知ったこともありますが、神想観、聖経読誦などによる神の導きがあったものと思われます。現象的な判断を超えて天分を見つけ、伸ばしてくれた父のおかげで今の私があるのです。父にはどんなに感謝してもしたりません。寒風吹きすさぶ日も、早く出勤するような勤勉な父でした私が小学校一年の時、雪が長靴より高く積もったことがありましたが、父を見倣い、雪をかき分けかき分け登校したこともあります。学校を出してもらえなかった父は生涯、学問をしたいと願い続けていました。それを思うと、私が長い間学校教育に携わってきたことは、父の願いが実現したことでもあったと思います。『あゝ野麦峠』(山本茂美著)に描かれた製糸工場に勤めながら、朝三時に起きて英語の勉強をしていた父の、学問に対する厳しさは生易しいものではありませんでした。そんな父の姿勢を受けた六人の子供は、学校の授業は真剣に受けるもの、先生の話を聴くときは精いっぱい聴き、それを自分のものにすることは当然であると思っていました。父は「万事好都合」の言葉を残して逝きました。我を無にした境地の父でした。今にして、厳しくなお深い父の愛を、ひしひしと感じています。
2006年03月24日
Vol.004 父の愛
父の七年忌に、父の日記帳を読むと「清水の舞台から飛び降りるつもりで稲蔵を音楽の道に進めた」とありました。子供の進む道を父か自分の育った環境から判断する限り、音楽の道は、河原で帽子に投げ銭をもらって生活するバイオリン弾きです。一生生活苦の道に子供を進めたくないのです。父が決断した心境を思うと、その切なさが伝ってきます。決断には何か大きな力が働いたとしか思われません。それは、六年間学校のピアノを借りて朝五時から七時まで練習に励んだ私の努力を父が知ったこともありますが、神想観、聖経読誦などによる神の導きがあったものと思われます。現象的な判断を超えて天分を見つけ、伸ばしてくれた父のおかげで今の私があるのです。父にはどんなに感謝してもしたりません。寒風吹きすさぶ日も、早く出勤するような勤勉な父でした私が小学校一年の時、雪が長靴より高く積もったことがありましたが、父を見倣い、雪をかき分けかき分け登校したこともあります。学校を出してもらえなかった父は生涯、学問をしたいと願い続けていました。それを思うと、私が長い間学校教育に携わってきたことは、父の願いが実現したことでもあったと思います。『あゝ野麦峠』(山本茂美著)に描かれた製糸工場に勤めながら、朝三時に起きて英語の勉強をしていた父の、学問に対する厳しさは生易しいものではありませんでした。そんな父の姿勢を受けた六人の子供は、学校の授業は真剣に受けるもの、先生の話を聴くときは精いっぱい聴き、それを自分のものにすることは当然であると思っていました。父は「万事好都合」の言葉を残して逝きました。我を無にした境地の父でした。今にして、厳しくなお深い父の愛を、ひしひしと感じています。
Vol.004 父の愛
父の七年忌に、父の日記帳を読むと「清水の舞台から飛び降りるつもりで稲蔵を音楽の道に進めた」とありました。子供の進む道を父か自分の育った環境から判断する限り、音楽の道は、河原で帽子に投げ銭をもらって生活するバイオリン弾きです。一生生活苦の道に子供を進めたくないのです。父が決断した心境を思うと、その切なさが伝ってきます。決断には何か大きな力が働いたとしか思われません。それは、六年間学校のピアノを借りて朝五時から七時まで練習に励んだ私の努力を父が知ったこともありますが、神想観、聖経読誦などによる神の導きがあったものと思われます。現象的な判断を超えて天分を見つけ、伸ばしてくれた父のおかげで今の私があるのです。父にはどんなに感謝してもしたりません。寒風吹きすさぶ日も、早く出勤するような勤勉な父でした私が小学校一年の時、雪が長靴より高く積もったことがありましたが、父を見倣い、雪をかき分けかき分け登校したこともあります。学校を出してもらえなかった父は生涯、学問をしたいと願い続けていました。それを思うと、私が長い間学校教育に携わってきたことは、父の願いが実現したことでもあったと思います。『あゝ野麦峠』(山本茂美著)に描かれた製糸工場に勤めながら、朝三時に起きて英語の勉強をしていた父の、学問に対する厳しさは生易しいものではありませんでした。そんな父の姿勢を受けた六人の子供は、学校の授業は真剣に受けるもの、先生の話を聴くときは精いっぱい聴き、それを自分のものにすることは当然であると思っていました。父は「万事好都合」の言葉を残して逝きました。我を無にした境地の父でした。今にして、厳しくなお深い父の愛を、ひしひしと感じています。
Vol.004 父の愛
父の七年忌に、父の日記帳を読むと「清水の舞台から飛び降りるつもりで稲蔵を音楽の道に進めた」とありました。子供の進む道を父か自分の育った環境から判断する限り、音楽の道は、河原で帽子に投げ銭をもらって生活するバイオリン弾きです。一生生活苦の道に子供を進めたくないのです。父が決断した心境を思うと、その切なさが伝ってきます。決断には何か大きな力が働いたとしか思われません。それは、六年間学校のピアノを借りて朝五時から七時まで練習に励んだ私の努力を父が知ったこともありますが、神想観、聖経読誦などによる神の導きがあったものと思われます。現象的な判断を超えて天分を見つけ、伸ばしてくれた父のおかげで今の私があるのです。父にはどんなに感謝してもしたりません。寒風吹きすさぶ日も、早く出勤するような勤勉な父でした私が小学校一年の時、雪が長靴より高く積もったことがありましたが、父を見倣い、雪をかき分けかき分け登校したこともあります。学校を出してもらえなかった父は生涯、学問をしたいと願い続けていました。それを思うと、私が長い間学校教育に携わってきたことは、父の願いが実現したことでもあったと思います。『あゝ野麦峠』(山本茂美著)に描かれた製糸工場に勤めながら、朝三時に起きて英語の勉強をしていた父の、学問に対する厳しさは生易しいものではありませんでした。そんな父の姿勢を受けた六人の子供は、学校の授業は真剣に受けるもの、先生の話を聴くときは精いっぱい聴き、それを自分のものにすることは当然であると思っていました。父は「万事好都合」の言葉を残して逝きました。我を無にした境地の父でした。今にして、厳しくなお深い父の愛を、ひしひしと感じています。
2006年03月22日
Vol.003 心に残る先生の愛情
私は小学校から大学と、さらに学校を終わってからも、先生の愛情に恵まれました。小学校一、二年担任の富士松先生は、私たち一人ひとりが全体の中によく溶け込めるように配慮してくださいました。先生は教室で子供が自信を持って手を挙げられるように、あらかじめ十分な準備期間を置いて全員が手を拳げることができるようにし、その中から一番引っ込み思案な子供に指名するような心配りをされていました。その先生の前では、私は思いきったことができました。授業参観日には、クラス全員の前で張り切って「さるかに合戦の話を終わりまですることができました。三年担任の近藤先生は、学年の終わりに私たちの書いた作文集を作ってくださいました。その作文集に、兄妹六人で楽しく遊んだ「すごろく遊ぴ」の作文を載せでいただきました。家で面白いとみんなに喜ばれ、「遊んでいる様子が手に取るようにわかる」と母に褒められ、時間をかけて作ってくださった先生の愛を感じるのてした。四年になって富士松先生が戻られました。先生は、夏休みにはクラスの一人ずつを自宅に呼び、全員の似顔絵を描いてくださいました。家に持ち帰ってみんなに見せると、次兄が「似てる、似てる。そっくりだ」と言い、母も目を細めてうれしそうな顔をしていたのが、今もまぶたに浮かびます。私の素直な表情をよくとらえて描かれているところに、先生の子供への愛情がにじみ出ていることが感じられました。お二人の先生が、子供を神の子として愛しはぐくみ、どの子も必ず天分を備えていると信じて発言を促したり、文集にクラス全員の天分の現れている作文を載せられたことが、今先生への思い出の中で痛切に感じられ、感謝の念がふつふつとわいてくるのです。
Vol.002 母の愛
私が小学校三年の時父は生長の家に入信していました。家族は両親と子供六人の八人家族でした。私は学校の運動会の時、一日かんかん照りの中にいて日射病になりました。体がだるく熱もあり、町の医者に行くと、この病名がつきました。来る日も来る日も体がだるく、学校に行く気がしません。母は「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ」(桜井の訣別)の歌を歌いながら、ミシンを踏んでいました。昼になると、甘露煮のワカサギが出ました。我が家ではぜいたく品でした。母の元で、母の歌声と母の踏むミシンの音を聞きながらワカサギを食べて、母の愛で心が満たされていきました。学校を休んでいる間、母は私が学校へ行かないことを心配する様子はなく、私の体力がつくことに気をつけているようでした。私はしばらく休むうちに起きられるようになり、昼間一人取り残されて学校へ行かないのは悪いという気がしてきました。が、「いつでも学校には行けるから」と、母は私の不安な気持ちを吸収してくれるのでした。四十日ほど休んでから、怠けてはいけないと思う気持ちが強く起こり、ある朝「学校に行く」と思いきって母に言うと、「そうかい」と気持ちよく送り出してくれたのでした。中学校に入ってからレントゲンを撮ると、大豆大の肺結核の跡があり、治っているということでした。考えれば、小学校三年で休んだ四十日間が、結核にかかりながら治りつつあった期間だったと思われるのです。母が世間体を気にせず、子供の体の状況を良く承知していて学校を休ませてくれたのてした。今考えると、学校を休んでいる間、母が子供の赴くままの気持ち、行動を見守って自由にさせている中で、私の病気は自然に治癒したのでした。
Vol.001 「はい」の実践
中学生によるさまざまな事件などに関連して、今、家庭教育のあり方が問われています。私のもとにも、お母さんたちが子供のことで相談に来られますが、そんなお母さんたちに共通しているのは、ご主人を放っておいて、子供にかかわりすぎているということです。あるお母さんは、子供を有名女子高校に入れるため子供と一緒に勉強に取り組みました。その結果合格したのですが間もなく子供が学校を休み始めたのです。お母さんが学校に行かせようとあせるほど、子供は頑として登校拒否を決め込むのでした。ついには外泊したり、お母さんに暴力をふるうようになりました。ちょうどこの時点で相談に来られたのです。聞くと、お母さんはご主人をないがしろにして、子供第一の生活をしてきたとのこと。そこで私は夫への中心帰一の大切さを説き、「ご主人に“はい”を励行し、ご主人が喜ぶことをしてあげましよう。お子さんには、良いところを見つけて褒めてください」と話しました。早速お母さんは、ピールをおいしく飲んでもらうため、コップを冷蔵庫で冷やしてご主人の帰りを待つなど、ご主人が喜ぶことを実行ご主人の言うことに「でも」と思うときも「ここが肝心」と自分に言い聞かせ、「はい」を心がけました。子供に対しても、学校へ行かせようとあせらず、自主性を育てることに切り換えて、子供の良い点を宝と考え、宝探しをしては褒めるようにしました。すると遅くなりがちだったご主人は、会社から真っすぐ帰るようになって家族が調和。子供にも笑顔が戻って、転校はしたものの学校に通うようになり、目的をもって勉強に励むようになりました。お母さんは「こんなに幸せで良いのでしようか」と言うまでになりました。
生命の教育!
《登山の目標は山頂と決まっている。
しかし、人生の面白さはその山頂にはなく、
かえって逆境の、山の中腹にある。》
吉川英治
いま多くの青年が悩んでいます。
大人も又人生の指針が見出せず、
社会の中で悪循環を併発しています。
「生命の教育」は、社会の、家庭の
根源から、良き芽を伸ばします。
「生命の教育」は生長の家の創始者、谷口雅春先生が長い思索と祈りの中で見い出した生命を伸ばす智恵の教えです。教育者鎌稲蔵先生が、教育現場で成功の数々をエッセーとして書き止め、ご許可を得てブログと致しました。
相愛会たろう
